障害のある子どもたちを「理解する」ということについて
はじめに
最近では「発達障害」などがテレビで特集されるなど、「障害がある」ということについて、あるいは「障害がある方々への配慮や支援の必要性」などについて、以前よりも世間での認知度が高まってきているのではないでしょうか。そこで、ここでは障害のある子どもたちを「理解する」ということに関して、特別支援教育を学んだ筆者が考えたり感じたりしていること、そして、筆者が支援者として心に留めておきたいと思っていることについてまとめつつ、その在り方について考えていきたいと思います。
1. 発達障害等に関する認知度の高まり
2. 障害の特性について学ぶということ
3. 発達のマイルストーンについて知ること
4. 障害という概念の恣意性・変動性 ~個人と環境との相対的な関係
最後に
1. 発達障害等に関する認知度の高まり
「図-障害に関する認知度の高まりとそのリスク」
筆者が大学で特別支援教育を勉強し始めた時期は、ちょうど特殊教育から特別支援教育への転換が図られていた時期でもありました。講義の中でも、発達障害と呼ばれる子どもたちが支援を必要としており、特別支援教育の対象として含まれる子どもが拡大されたということを学んだことを覚えています。
そして現在、世の中の流れもあり、発達障害等について、テレビやインターネットの記事で特集が組まれるなどして、その理解を深めようとする動きが格段に進んでいるという印象を持っています。実際、発達障害等の子どもたちを対象とした児童発達支援や放課後等デイサービスといった療育機関等も以前よりも増えてきています。
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これらの動きは、当事者の方々やサポーターの方々のご尽力の成果でもあり、世間の方々が特別なニーズをもつ子どもたちについて知り、理解をしたいと思われるようになった結果でしょう。また、障害のある子どもたちがいきいきと生きていける社会を作る上で、本当に貴重な第一歩だと思います。
しかし、特別なニーズのある子どもたちと直接関わるうえで、例えば、「○○障害はこういう特性がある…だからこういう支援がいいんだ」という、障害に関する机上で得た知識だけ、あるいは、いわゆるステレオタイプ的な見方だけで、子どもたちを理解したと思うことはとても危険だと思っています。
実際、例えば、自閉症の子どもたちは、一般的には視覚的な情報処理が優れていると言われます。だからと言って、先生が「○○くんは自閉症だから視覚支援をすればよい」と短絡的に考えるのはものすごく危険なことです。
このような見方は、子どもを見る教師の見方を浅くし、実際の子どもを深く見ていくという姿勢を妨げる可能性があるからです。そのような短絡的な見方をすることが原因で、実は他にももっとあったかもしれない「その子に合ったサポート」を受ける機会を奪うことにもなりかねないからです。
また、発達障害等の知名度が上がるにつれて、小さな子どもをもつお母さん・お父さんたち持つ保護者の方々が、「うちの子も、もしかして障害があるんじゃないか」という心配を、それを意図せずとも高めてしまうことにもつながってしまうことも考えられます。
障害の早期発見・早期療育が叫ばれ始めている中、その子どもの困りごと・困った様子が発達の振れ幅なのか、それとも何らかの障害に起因するものなのかを見極めることは、実はとても難しいことでもあるのです。
筆者は早期からの支援の必要性は否定していません。むしろ大切なことだとは思っているのですが、あまりに早期から、子どもの「障害の可能性」を疑うことは、「障害というレッテル・ラベルを貼り付けてしまうことにならないか?」と考えてしまうのです。
「この子は障害があるから」と、保護者の方々を中心とした支援者がラベリングをすることによって、その子の潜在的な能力を低く見積もり、その結果として受けられる教育の質が低下するといった危険性があるということです。
障害のある方の支援者の方々の多くがすでにされていることとは思いつつ、それでも必要なのは、障害の枠の中で子どもを見るのではなく、最初に子どもありきで日々関わり、必要なサポートを子どもに合わせ行っていくことであると思うのです。
2. 障害の特性について学ぶということ
「図-障害に関する知識の目的」
ここまでに、障害の特性を過度に子ども当てはめることについて、筆者が感じている危険性を見てきました。では、障害の特性等の知識の勉強は不要なのでしょうか?
そのようなことはまったくありません。むしろ、障害の特性等の知識を持つことは非常に重要でしょう。
前述したように、例えば、子どもに障害があると考え能力を低く見積もってしまうなど、安易にその知識を使うことに対しては、筆者は反対の立場です。
一方で、支援者として障害の知識を持つことはとても重要なことであると認識しています。支援をする上で、その子どもの困っていることを知るためには、障害の特性とそれに起因して起こる可能性のある困難さについての幅広い知識が必要と考えるからです。
つまり、「知識はラベリングのためのものではなく、支援のためのものである」と考えているということです。
思い返して見るととても浅はかで恥ずかしいのですが、筆者は肢体不自由について学ぶ前、肢体不自由のある子どもたちというのは手足がうまく使えない、身体的な障害のみを特徴としてもつ子どもたちであると思っていました。
しかし、肢体不自由の子どもたちの多くを占める脳性まひの子どもたちは、脳に何らかの障害を負ってまひが起こっています。よって同じく脳の機能が関連する他の障害を併存している可能性があります。
例えば、視覚障害などの障害、不必要な刺激に容易に注意を向けやすいような転導性といったものです。
さらに、脳性まひの子どもたちは、出生後の早期から運動機能が制限されているために、興味のあるものへ手を伸ばしたり、関わりたい人のもとへ寄っていったりするといった、「環境へのはたらきかけの経験」が乏しくなります。実はこの「経験の有無」は、人の社会性へも影響すると言われています。
このような知識を持っていなければ、その子の運動機能のみに焦点を当てた、偏った支援を行ってしまうかもしれません。
しかし、障害に起因する困難さがどのような領域に出やすいかといった知識があれば、運動機能のみではなく、認知機能や社会性の発達の程度にも焦点を当て、総合的な支援ができるようになる可能性が拓けます。つまり、基本的な障害の特性を知っていることは、その子どもたちを理解する、あるいは支援するための情報の一部となるのではないかと考えられるのです。
【関連記事】
脳性麻痺とは?
https://jlsa-net.jp/ti/noseimahi/
3. 発達のマイルストーンについて知ること
「図-一人ひとりの発達と、発達のマイルストーンとの関係」
基本的な障害についての知識を得ることに加えて、子どもがどのような過程を経て発達していくのかという知識を持つことも、障害のある子どもたち、特に、幼少期の子どもたちを支援していく上で必要なことだと感じています。
例えば、「握る」という動作の発達について考えてみます。
私たちは、すぐに鉛筆やスプーン・箸を大人が持つようにはできません。「手掌回外握り・手掌回内握り」「手指回内握り」「側方つまみ」「静的三指握り」「動的三指握り」というような順序で最終的に大人がするように鉛筆やスプーン・箸を持つことができるようになるのです(鴨下・立石・中島、 2013)。
そのため、例えば「手掌回内握り」の発達段階の子どもに「静的三指握り」のような持ち方を練習させることは、子どもの発達を無視した、無理な指導をしているとも考えられるのです。
発達障害の子どもたちの中には発達が緩やかだったり、不器用さが目立ったりして、他の子どもに比べてスキルの習得が遅れているように見える子どもがいるかもしれません。
そのときに、子どもが「知識やスキルを学び、それを習得していくスピード」である「その子どもの発達段階」を考慮せず、「他の子どもと同じように」ということに重点を置いてしまうと、子どもに大きな負担をかけるばかりか、子どもが自信を失ってしまうことにもつながる可能性があるでしょう。
子どもがいま、発達過程のどのあたりにいるのか、どの発達段階にいるのかを把握し、適切な次のステップとしての「目標」を設定し、スモールステップで着実に導いていけるようなサポートを心がけたいと、筆者は考えていますし、支援される方々にも重視していただきたいと考えています。
参考:
苦手が 「できる」 にかわる! 発達が気になる子への生活動作の教え方
鴨下賢一(編)立石加奈子・中島そのみ(著)(2013)、 中央法規出版.
4. 障害という概念の恣意性・変動性 ~個人と環境との相対的な関係
「図-障害による「困難さ」は、環境で変わる」
筆者がつくづく思っていることは、「障害」というのは個人と環境とのかかわりの中で定義づけられるものだということであり、「障害」とは変動する要素がある、ということです。
障害に起因する社会的な困難さというのは診断されたその時から不変かというとそうではなく、環境や社会との関わりの状況によって変動すると考えられます。このことを、足に障害があり車椅子を利用する方がバスに乗る際に経験する困難さを例に考えてみましょう。
このとき、例えばバスに段差あったりすれば、車椅子を利用されている方がバスに乗車することに困難さが生じ、その方の移動の機会が奪われていると言えます。
しかし、バスの段差をなくすことによって、その方の移動の困難さは軽減すると考えられます。つまり、障害に起因して経験する社会的な障壁は、環境次第で軽減されるということなのです。
同じように、選択的注意に困難さがあり、人の声がざわざわしている中でアナウンスの声が聞こえにくいような方の場合でも、アナウンスが流れたときに周囲にいる方が静かにしてくれれば、情報を聞き取りやすくなるというようなこともあるでしょう。
その他にも、障害をお持ちの方自身がスキルを身につけ、自身の困難さをカバーしているような例はたくさんあると言えます。
例えば、金銭の計算スキルに困難さがあった方が、学校での継続的な学習を通して、あるいは、電卓の利用といった代替え機能の利用スキルを身につけることで、金銭を支払うスキルを身につけ、買い物をすることができるようになるといったケースが該当するでしょう。
このように、「障害」という診断名はつくものの、その程度や性質は固定的なものではなく、環境や社会との関係性の中で変動するものであるといえます。
そのため、障害のある方々や子どもたちが生きていく力を伸ばしていけるような支援をすると同時に、障害のある方々や子どもたちが過ごしやすい環境、力を発揮できる社会をどのように作ることができるかという視点も必要と考えられます。
最後に
ここでは障害を「理解する」ということについて、筆者が感じていることと、支援をする上で心に留めておきたいことをまとめてみました。
それをひと言で言うなら、「<障害のある>子どもとして目を向ける前に、目の前の<その子>をまずは見るということではないかと思う」ということです。
筆者自身が、その子の好きなことや伸ばしたい力を見つけ、その関わりの中でたくさんの学びの機会を埋め込み、目の前の子どもとの関わりを目一杯楽しめるようなサポートができるようになりたいと、常々思っているということです。
なお、この記事に関連する参考文献は下記の通りとなります。合わせてご確認ください。
参考:
苦手が 「できる」 にかわる! 発達が気になる子への生活動作の教え方
鴨下賢一(編)立石加奈子・中島そのみ(著)(2013)、 中央法規出版.
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