障害の有無を「違いである」と、本当の意味で実感することの大切さ
はじめに
障害のある方、あるいは、障害のあるご家族のいらっしゃる方にとって、「障害があること」「障害のある生活」は、それが当たり前のこととなっているのではないでしょうか?一方で、世の中には、障害のない方も当然ながらいらっしゃいます。
では、もしあなたが、5歳ぐらいの障害のない子どもに対して、「障害がある」ということを説明するとしたら、どのように説明するでしょうか?
ここでは、筆者と筆者の息子とが遭遇した「とある出来事」をきっかけに、筆者が「障害があること」について考えたこと、そして、むしろ息子に教えられたことを、一つの経験としてまとめ、お伝えしたいと思います。
1.子どもが初めて感じた「違い」
先日、ひとり遊んでいた5歳になる筆者の息子が突然、「ママ、このあいだ電車に乗った時に隣にいた大人の男の人、『あ~あ~、う~う~』って言ってたけど、どうしてなの?」と言ってきました。
私ははっとして息子を見ました。「あの時のこと、気になっていたんだ・・・」
この質問を受ける1週間ほど前、電車で知的障害があると思われる30代くらいの男性、ここでは仮にAさんとさせていただきますが、そのAさんと、Aさんのお父様と思われる付き添いの方が隣に座られました。
Aさんは、電車がすれ違う度に「あ~!あ~!」と大きな声を出していたのですが、それは非常に楽しそうな、あるいは喜んでいるようなご様子に見えました。
そのとき息子は、Aさんが声を発する度にチラッと見ていたので、きっと気になっているのだろうと筆者は思っていました。そして筆者は、息子が「あの人どうしたの?」などと聞いて来てしまったらどうしよう・・・、と、内心ではハラハラしていました。
というのも、その場でそのような質問をされた場合に「どう答えたら良いのか」、まったく準備がなかったからです。筆者の心配をよそに、息子はその場でも、電車を降りた後も、また寝る前にも何とも言ってきませんでした。そして、筆者は「息子は特に気にしていないんだな」と、実はホっとしたのです。
ところが1週間も経ってから、そして、家でいつものように遊んでいて突然、何の前触れもなく「どうして?」と聞いて来たのです。筆者は、そのあまりの唐突さに驚いてしまいました。
2. 「普通」って何??
その当日に何事も言い出さなかった息子。そんな事実に甘えもあったのかもしれません。当日の出来事の際、自分自身に回答への準備がまったくなかったことに気づかされたにも関わらず、その後も「その時、どう答えるのか?」を考えていませんでした。
筆者はどう答えようか、とその場で咄嗟に考えたのですが、少なくとも「障害がある」という言葉を使うべきではないように感じました。そして、こう答えたのです。「気持ちの伝え方にはいろいろな方法があるんだよ。あの人にとっては『あ~、う~』が気持ちの伝え方なの。」
すると息子は納得した様子で「そっか」と言いながらすぐにまた遊びに夢中になりました。
息子からの突然の問いかけに、筆者は、「「障害がある」ということを、「ママはどうとらえているの? ママはどのように説明してくれるの?」と、問われているかのように感じ始めました。
それ以来、「私の回答は正しかったのか」、そして「障害がある、とはどういうことか」「『障害がある』という言葉を使わずに回答するのが良かったのだとすれば、では幼い子どもに障害をどう伝えるのがよいのか?」を考えるようになったのです。
5歳ぐらいの子どもにとっては、何が「障害がある」ということなのか、判断がつきません。ただそこに、「何かが自分と違う」という感覚あることは、今回の出来事からもはっきりとしています。つまり、いわゆる健常であること、世間一般に使われている言葉をあえて使うなら「普通」というものが何なのかという視点や、「障害がある」という視点はないのです。
「ということは、大人だけが「普通」と「普通ではない」、また「障害がある」か「障害がない」を区別しているのではないか。」
すると新たな疑問が出てきます。「普通とはどういうことなのか?」という疑問です。一人で「衣食住」の生活ができること? 社会生活を営めること? 当たり前のことができること? では「当たり前」って何なのでしょう??
あれこれ考えているうちに、「障害がある」という表現自体に違和感をおぼえる自分に気がつきました。
そして筆者は思い至ったのです。
「その人にとっては、その人の置かれた状況が普通」だということ。「そういう人もいる」「そういう方法もある」というシンプルな目線。「人は、一人ひとりそれぞれ、で、みんな違う」という、それこそ当たり前の考え方。
息子が筆者の説明を聞いて、感じ、納得したのは、「自分との違いがあること」であって、「いわゆる普通との違いがあること」ではない。つまり「障害がある方」を「普通とは違う」と感じているのではなく、「自分と違う」と感じているだけなのではないか。
3.「自分との違いを縮める」という考え方
「図-ノーマライゼーションの原則」
「ノーマライゼーション」という言葉が一般的になり、また、障害のある方の活躍の場が広がりつつあったり、あるいは、バリアフリーの環境が導入された施設が増えたりといった現在ではありますが、それでも社会全体の意識面も、さまざまな社会環境の整備上の面も、まだまだいわゆる「健常者」向け、「健常者」視点であることは否めません。
ノーマライゼーションの原則の一つに、「誰もが等しく『ノーマルな生活』をおくる権利の重視」があります。「障害の有無に関わらず、誰もが、その時代・その場所で主流となっている生活条件に近い『ノーマルな生活』をおくる権利を行使できるよう、社会環境を整備することが必要だ」ということですが、いわゆる健常者である筆者から見ても、その整備はまだまだ不十分と感じます。
また、「普通って何?」という問いは、ノーマライゼーションの原則の一つに示される「ノーマルな生活」というものが、「時代や場所によって異なる」ということと、密接な関係があるのではないかと感じます。つまり、さまざまな環境が整備されれば、いわゆる「普通」を享受できる人も増えるはずだということです。
たとえば過去においては、「男性が社会で働き、女性は家を守る」というような考えが一般的、いわゆる「普通」でした。それが現在では、法整備を含むさまざまなしくみの整備もあり、男女の区別なく社会で活躍することが一般化、いわゆる「普通」になりつつあります。
ということは、「普通とは、変化するものだ」ととらえられることができます。
障害のある方、高齢の方、外国籍の方などに配慮したしくみを整備することは、これとまったく同じことだと思います。整備を進めれば、普通のレベルが上がる。つまり、「普通を享受できる方を増やすこと=普通のレベルを上げること」が求められているのだということです。
障害のある方などに配慮したしくみや環境を整えるにあたっては、時に時間や人員を要したり、意見の食い違いが出たりすることもあることでしょう。それにより、なかなか整備が進まないということもあるのかもしれません。
そのような時にもっとも大切になるのは、幼い子どものような純粋な目線、つまり、まずは「自分との違い」を感じ、その「違い」を「縮める」という意識なのではないかと、筆者は息子との「とある出来事」を通じて感じています。
制度を整備する時にだけ、一部の人だけが「ノーマライゼーションとは」を難しく捉えてルールを決めるのではなく、社会全体で、障害のある方もそうでない方も、常に「自分との違い」を「縮める」ということを意識して「生活をする」のです。
ノーマライゼーションの考え方には、「ノーマライゼーションは完璧を目指すものではない」というものがあります。それぞれの状況に応じて、それぞれに必要な支援を行ったり、環境を整えたり、それができる条件を整えたり、といったことをしていこう、という考え方です。「縮める」という言葉には、この「完璧を目指すものではない」という意味合いも含まれていると筆者は考えます。
参考:
高知市
ノーマライゼーションの八つの原則(ニィリエ)
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/29/keikaku-1-norma.html
独立行政法人 国立特別支援教育総合研究所
ノーマライゼーションと障害のある子どもの教育
https://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_c/c-44_0/c-44_0_03_12.pdf
東北福祉大学 通信教育部 With ホームページ
【社会福祉キーワード】 ノーマライゼーション
https://www.tfu.ac.jp/tushin/with/200803/01/03.html
4.「障害」を身近に感じ、積極的に考える
「図-「障害」を身近に感じる ~ 筆者の場合」
「障害がある」状態でも、それをカバーする道具や周囲の方や環境そのもののサポートがあれば「障害がある」状態ではなくなる、快適に生活できることが可能になるはず。
まだまだ不十分とはいえ、過去と比較すれば環境は整備されてきているのが今。そのような歩みを進めてきた今だからこそ、小さなことから、「自分との違い」を「縮める」ということを意識して生活をしていく、生活を変えていく。それが、私たち一人ひとりにできることなのではないか。
そのようなことを考えていた筆者はふと、自分自身にも日々を快適に過ごすために利用しているものがあることに気が付きました。それは、コンタクトレンズです。
視力が低い筆者は、朝起きてすぐコンタクトレンズをつけることが日常であり、欠かせないこと。たまに面倒だなと思うことはあっても、コンタクトレンズがあることで快適に生活できるのですから苦にはなりません。コンタクトレンズをつけることで、視力の高い方と同様の生活ができるのです。
重い障害のある方や、そのご家族からすれば、「コンタクトレンズをして快適に過ごす」ことと、障害をカバーすることとを重ね合わせることは、不快に思われることかもしれません。
しかし、少なくとも筆者にとっては、こうしてたどり着いたとらえ方によって、「障害」というものを非常に身近に感じられるようになり、また、気持ちがとても楽にもなりました。
誤解を恐れずに述べると、以前の筆者は、身近に障害がある方がいないこともあり、街で障害がある方に出会うと、どうしても、どこかで「大変だな」「可哀そうだな」と思わずにはいられなかったのです。
しかし、「障害があるとは、どういうことなのか?」を、コンタクトレンズの例のような些細なことを通じてでも身近に感じられれば、本当の意味で障害があるということ、違いを認めるということ、そして、違いから生まれる不自由さを解消・軽減すること、そして「普通にしていく」ということが、一体どういうことなのかを実感していけると思うのです。
最後に
筆者は、あの時息子に「障害がある」という言葉を使わなかったことを、少なくとも息子の今の状況、成長段階を考えるとやはり「正しかった」と考えています。少なくとも今の息子は、「障害があること」を、「自分との違い」という形でとらえている、と感じることができたからです。
と同時に、自分自身が、この先の人生で「障害がある」こととどう向き合って行くか、ということを、常に積極的に考えていきたいと思うようになりました。
ここで重要なのは、「考えていかなければならない」と思ったのではなく、「考えていきたい」という積極的な姿勢であったこと。このことは、これまで「障害」について考えたことなく過ごしてきた私にとって、大変うれしいことでした。
親の介護、家族の病気や事故、もちろん自分の身にも、何が起こるかわかりませんし、「障害のある状態」になることもある・・・。「障害がある」ということは、これからの人生、どこかで経験する可能性があることですし、それは誰にも共通することです。
実際に直面してからケースバイケースで向き合っていくことも悪いことではないはずですが、ゼロの状態で前向きに考えることができる時だから見えてくるものもあると思うのです。
事実、筆者は、外出先で人々や街の様子をより観察するようになりました。バリアフリーの状況はもちろん、街の様子、人々の動き・・・。幼い子どもを持つ保護者としてそういった状況には敏感な方だ、と思っていましたが、より一層注意して見るようになりました。
「障害は個性である」というような表現をされることもあるかもしれません。しかし筆者は、「障害は、一人ひとりの違い」なのではないかと感じています。息子が、息子の視点で問いかけてくれたおかげで、「障害は子どもにとって『違い』でしかないこと」に気づかされたからです。
そしてそれをきっかけに自分自身が深く「障害」について考えられた。息子に感謝する気持ちでいっぱいです。
なお、この記事に関連するおススメのサイトは下記の通りとなります。参考までご確認ください。
参考:
高知市
ノーマライゼーションの八つの原則(ニィリエ)
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/29/keikaku-1-norma.html
独立行政法人 国立特別支援教育総合研究所
ノーマライゼーションと障害のある子どもの教育
https://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_c/c-44_0/c-44_0_03_12.pdf
東北福祉大学 通信教育部 With ホームページ
【社会福祉キーワード】 ノーマライゼーション
https://www.tfu.ac.jp/tushin/with/200803/01/03.html
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